ありがとう おかあさん

こころの整理がようやく付き始めたので、
ちょっと悲しい話で恐縮だけど自分の備忘録なので敢えて投稿します。

ありがとう おかあさん_c0122670_01411957.jpg


ふもとっぱらツアーの帰り道。

助手席の友達と話しをしながら、お互いの両親の楽しそうな充実人生の話題になった。

「うちの親は果樹園の世話をしながら、冬とか農作業の合間を狙って一年に一回以上その労働のご褒美に国内外の旅行に行っているんだよ。私のライフスタイルもその影響かな~ でも実は母がいま病気で入院してて、ちょっと危ないんだ~。今回のイベントも何かあったらドタキャンしてたかもしれないくらいのタイミングだったけど、とりあえず何事もなくって良かった」って話をしていて、ちょっと気を遣わせるような暗い雰囲気にさせてしまったのだが、空気を換えるためにもトイレ休憩しようとちょうど入口が近かった談合坂SAの駐車場に入って良い場所に駐車スペースを見つけ停車したその瞬間に父からの電話・・・

今話したそばからなんかいやだな~

まさかこのタイミングじゃないよね。




父「ついさっきお母さんが亡くなったんよ」


私「えっ、それ今? えっ、ホント??」




仲間たちの楽しい旅の雰囲気をここで壊してはならぬと思い、同行者には悟られぬようすぐに離れ、電話の内容は内緒にしておいた。

電話が運転中じゃなくって良かった。

無事に安全に仲間達を昨日拾った駅に送り届け、ほっとした。








私の母は約一年前に自覚症状で見つかった盲腸の検査で、同時に悪性リンパ腫という病気にかかっていることが分かった。

そのときの、それを伝える母からの電話をよく覚えている。

「絶対大丈夫だから心配しないで、私がこんな病気に負けるわけがない、まったく問題ない」

「私はなあ、今まで本当に幸せ過ぎたんよ。いい旦那に出会えて、よい子供たちに囲まれて、今までが幸せ過ぎた分、これくらいの病気はなんぼでも受け入れるわ!」

母の口癖は「心配せんでええ、絶対大丈夫」
いつも私がなにか悩みを持つたびに、そういって安心させてくれた。
不思議となんとかなるんだろうなあ、そんなに心配しなくても良いんだなあと勇気をもらった。
母はなんだかんだで泣き虫で一番心配性な癖に。


私がたしか小学生の時にも母は一度大きな病気をして、胸骨を真ん中で切って胸を開くほどの大がかりな手術から無事生還している。
当時の自分は病気の重さはつゆ知らず、しばらく入院のために家にいないなあ、寂しいなあくらいにしか思っていなかった。

当時、母は家にあった子供たちに読ませたい本の朗読をカセットテープに吹き込んで3兄弟の子守歌として使えるように残してくれたことがあったのだが、

今回入院中の母に昔の思い出話として「そんなことがあったよなあ」と言ったら、母は「初めて死を覚悟するほどの病気だったから当時は必死になって何か子供たちに残そうとした」と本当の理由を説明してくれたのだ。

その中の一つの本のタイトルは黒柳徹子さんの代表作「窓際のトットちゃん」

「やすあきちゃんが死んだ」の章のところで母が泣きながら朗読していたのを子供ながらに変だなあと思ってテープを聞いていたのだが、その理由が今頃になってわかった。


ちなみに、岡山県は全国に誇れるほどの医療先進県であり、充実した設備と医師がそろっている病院が多くあり、母も万全の態勢で治療されるといっていたので、今回も前回と同じ病院だし、絶対に大丈夫だろうと、心配ではあるがきっとなんとかなる神様は守ってくれると、それほど心配しないようにしていたのだが、一度目の抗がん剤治療で完治せず、治療後一週間で再発、次の治療でも完治せず、つらいつらい抗がん剤治療を手を変え挑戦してもらったのだが、一進一退を繰り返しながら、ちょっと息子として見てられないほど徐々に衰弱していったのだった。

その間、父はもちろん私の弟や年の離れた妹が入れ替わりで毎日毎日看病に駆けつけてくれていて、私は遠いから「たいしたことないのに、来なくていい!」と電話やLINEで断られていた。

衰弱している姿を見せたくなかったのだろう。

入院中治療中の母の楽しみが面白かった。強い痛み止めの薬を飲むと幻覚作用が起きて、現実か幻覚か判断ができないほどリアルに、多くのお笑い芸人さんが自分の周りにやってきては面白いことをしてくれて、彼らとの会話のやりとりが楽しくて仕方ないらしく、父たちが見舞いにきたときに、本当に起きたことだと思い込みながら詳しく説明していたらしい。私はそれを聞いて薬の怖さを心配すると同時に、とっても楽しそうに話す母に嬉しさを感じたほどだった。

自分は絶対に大丈夫、復活してみせると常にポジティブに治療に向き合っていたので、これは本気で病気に打ち勝つかもしれないなあと期待を感じるほどの姿勢だった。

でもほんの数か月まえ、その母の幻覚が激しすぎて異常行動を起こし、いよいよ命が危ないかも!と思った父が、一斉に家族を集合させたことがあって、岡山の病院に飛んで行った。その時は母も復活し会話ができるほど結局なにもなかったのでほっとしたが、もういつこのような本番が来てもおかしくないんだなあと、「じゃあまたね」という会話が最後になるかもしれないという緊張感を隠しながら別れた。

3週間前に突然祖父が亡くなった時、母に病院で再会した。
祖父の葬式の前に私と妹と、弟の嫁さんの三人で見舞いに行き、3人で手足のマッサージを始めた。私は左手。
母はしみじみと、「こんなにみんなにしてもらって贅沢じゃなあ」と喜びながら、半分麻痺した顔を外が見える窓の方に向けていた。

久しぶりに母の手を触ったけど、やっぱり温かいなあ....

全く食事を受け付けず、水分すらも喉を通らないという弱った状態で、本当にずいぶんやつれてしまったなあ、
なんとか大逆転はないのかなあ、お別れなんてまだ早すぎるわ~、でもいままで本当に感謝しかないなあ。と思いながら手を握ってマッサージを続けていたら涙をこらえられなくなってしまい、涙が頬をつたってしまった。見られたらまずいので鼻もすすらずに静かにマッサージを続けていたら、母が突然こっちを向いて話しかけてきた。

質問は祖父の葬式の事だったと思う。母にとっては父だ。

私は動揺を隠しながら何事もなかったように質問に答えただけだったけど、母は私の涙をみて、何を感じたのだろうか。この涙は、とりあえず今までの感謝の気持ちだから。そう思ってもらえるようにもっと強くマッサージを続けた。

今思えば、祖父は自分の死をもって、この再会のタイミングを与えてくれたのかもしれない。
そして、感謝を伝えるチャンスを与えてくれたのかもしれない。

これが絶対最後というわけでもないので、一生の別れを言えるはずもないのだが。

私「じゃあおじいちゃんをみんなでしっかり見送ってくるね!」
母「はい、お願いします!」

私「お母さんも病気を治すよう頑張って、いやもう十分頑張ってるからこれ以上言われても困るよね・・・」
母「そうよ~」

私「じゃあね」

というのが私と母の最後の会話になってしまった。


それから約二週間後

母は入院病棟からいったん帰宅した。自宅で最期を迎えるように病院側が配慮してくれたのだろう。
何かあったら大変だと、父は心配をしていた。病院の方が安心なのだけど。



家に戻って4,5日後
妹曰く、いつも「痛い痛い」が口癖なほど状態が悪かったらしいがこの日は痛いと言わないので違和感を感じていたらしい。
すると次第に呼吸機能が低下し、ほどなく心肺が停止に。
それに気づいた父の心臓マッサージの甲斐なく天に召されたという。

すぐに駆けつけてくれた入院先だった病院の担当者が素早く処置をしてくれて、診断書も作成してくれて、今回は検死作業は無し。
良かった。





そして、12月4日。
私も棺桶の中に入った母に再会。

父から聞いていたとおり母はとてもいい顔をしていた。

闘病中の辛そうな顔が嘘のように安らかに眠っている。
「いままで本当に良く頑張ってくれました、お疲れ様でした」

棺桶のふたを開けて母のほっぺたに触れてみたら冷たかった。

本当に死んじゃったんだね。
不死身だと思ってたのに。


ありがとう おかあさん_c0122670_00502662.jpg
本人が昔の話の中で希望していたように、目いっぱいのお花で囲んだ。
母の意向でお葬式というより本当に親族だけのお別れ会。
それでも50人以上集まった。
大家族だね~





ありがとう おかあさん_c0122670_00031401.jpg
お盆やお正月には日本中に散らばった従兄弟たちも岡山の実家に集まって母の手料理で大宴会するが恒例だったので、
第二の母のように慕ってもらえていたので、従兄弟で参加できる人たちは集まってくれた。
とにかく自分より人を優先し、みんなをもてなしたりさりげなく喜ばせたりするのが好きな人だった。


いままでの感謝の気持ちと、もう会話ができないことを考えると誰もが号泣。
ちょっと逝くのが早すぎたよね。まだ69歳なのにね。


メッセージの寄せ書きの色紙を書くのにまた号泣。


前日に父から「お別れ会で長男として手紙を読んでくれない?」ってお願いされたのだけど、今回は本気でパス。
言いたい事はたくさんあるけど、声にならないことが容易に予想され・・・

代わりに一番面倒見が良い次男が受けてくれたけど、司会者に代読してもらった。気持ちはわかる。
ありがとう おかあさん_c0122670_00502671.jpg

さらに孫代表で一番年長の三男の長男(13歳)がマイクで自分が書いたお婆ちゃん宛ての手紙を自分で読んでくれて、終わったところでみんなで拍手。文章もしっかりしていて感動的で、お前何者なのだ、将来が楽しみだなあ。

しかしカッコ良かったな~


この後、さらに集まってくれた母のプライべートの友達にも見送られ、霊柩車に乗って火葬場へ。








それから90分で骨になってしまったよ。
母の生前の希望で遺骨をエーゲ海に散骨する為に少し持って帰らせてもらった。


遺骨の入った骨壺を膝に抱えながら車で移動。
随分小さく軽くなったなあ。

ありがとう おかあさん_c0122670_23593309.jpg

実家に戻った。
すぐに家には入らずに、お母さんが幼少期から過ごして遊んだ家の周りを、
紅葉で綺麗に色づいた景色を見せるようにゆっくり歩きながら一緒に散歩した。



ありがとう おかあさん_c0122670_23593469.jpg





ありがとう おかあさん_c0122670_23593404.jpg






ありがとう おかあさん_c0122670_23593548.jpg






ありがとう おかあさん_c0122670_23593506.jpg







ありがとう おかあさん_c0122670_23593525.jpg




ありがとう おかあさん_c0122670_23593674.jpg






ありがとう おかあさん_c0122670_23593614.jpg








ありがとう おかあさん_c0122670_23593644.jpg


お母さんの願いを胸にして、残りの人生、みんなで力を合わせて一日一日を楽しく大事に生きていくからね。
そう改めて思いながら家に入っていった。

おかえりなさい。




ありがとう おかあさん_c0122670_00031705.jpg








ありがとう おかあさん_c0122670_00001268.jpg




実はこの日にちょっと考えられない奇妙な現象が起きたのだけど、その話はまた後日。



Commented by slacker at 2016-12-12 23:30 x
お悔やみ申し上げます。
きっと、お母さまは、おじいさまが寂しくないようにとお考えになったのですよ。
きっと。
Commented by oyakata58 at 2016-12-13 08:49
slackerさん、どーもです。
ありがとうございます。
あの世で仲良くしてくれていればいいのですがね〜
じいさまも順番を間違わせたくなく先に逝ったのでは?と思うほど急でした。いろいろお互いに気を遣い過ぎてましたからねー。
by oyakata58 | 2016-12-08 01:37 | 独り言 | Comments(2)

何気ない日常の中に見つけた小さな幸せを綴ります


by oyakata58